Friday, August 4, 2023

長春真人・丘処機の伝説と真実

 

長春真人丘処機の伝説と真実
B.
トメンウリジ

モンゴル史において「帝国時代」と称される1314世紀の歴史を理解するためには、中国の史料を避けて通ることは難しい。これは中国人がことさらに優れた歴史記述能力を有していたからではなく、モンゴル人が中国を征服し、その領域を大モンゴル帝国の版図に組み入れたためである。

モンゴルが北京を含む北方の金朝領域を征服した時点から数えると、モンゴル人による中国支配は実に134年に及んだ。国家は滅亡したとしても民族そのものが消滅したわけではなく、その民族が自らの歴史を書き続けること自体は、もとより何ら非難されるべきことではない。

中国の歴史書、文学作品、さらには一般向けの書籍に至るまで、「長春真人(丘処機)がチンギスハーンと会見した」という逸話は、ほぼ例外なく取り上げられている。そこでは、チンギスハーンが国家統治の術と不老長寿の秘法を学ぶため、高齢の道士であった丘処機を招いたとされている。そして丘処機はチンギスハーンに対し、「殺戮を減らし、人民を慈しむべきである」と諫言し(1)、その結果、モンゴル軍による殺戮は減少し、征服地の住民の犠牲も軽減されたと説明されている(2)

このような物語は時を経るにつれて発展し、丘処機はチンギスハーンに統治術を授けた政治顧問、さらにはモンゴル軍の鉄蹄から中国を救った英雄として描かれるようになった。この見解やテーマを扱って修士号博士号を取得した研究者がどれほど存在するのか計り知れず、近年では独立した研究分野として発展するに至っている。さらに2013年には、中国で映画『止殺令』(Ji Sha Ling(3) が制作され、この見解が映像作品を通じて広く宣伝された。こうして、若き部族長から大ハーンへと成長するまで師を持たず、軍事政治の両面で天賦の才能を備えていたテムジン=チンギスハーンは、没後数百年を経て、ようやく「丘処機」という中国人の師を与えられることになったのである。

もし、このような主張が中国側だけによるものであれば、まだ理解の余地もあろう。そもそも中国には歴史学という学問は存在せず、あるのは歴史文学だけだからである。しかし残念なことに、モンゴルの歴史学者たちまでもが、大ハーンと老道士との会見を、中国側が創作した解釈と驚くほど酷似した形で、あるいはそれに歩調を合わせる形で説明するようになってしまった。

たとえば、サイシャール氏の大著『チンギスハーン史要(『チンギスハーンの略史』)』では、丘処機を「遠大な見識を備えた政治家」と評価し、「チンギスハーンの立場から見れば、平和な国家を整備統治するためには学識ある賢人が必要であった」と記している。これは、「国家統治の術を尋ねるために丘処機を招いた」という中国側の解釈と完全に一致している。また、「チンギスハーンが丘処機を招いた目的には、長寿の道を求めるという側面もあった。しかし、それは本質的な目的ではない」(4) と断じることで、老道士を招いた唯一の目的を否定し、この会見を純粋に政治平和外交上の出来事として位置づけている。

さらに、アカデミー会員チダライ氏の卓越した論考を特色とする全三巻の『モンゴル史』では、チンギスハーンは「大帝国を統治する方法などについて丘処機に尋ねた」(5) と記されている。

モンゴル史学において未来永劫の明星ともいうべき碩学たちがこのように記している以上、多くの一般読者が同様に理解し、それを信じ、さらには広めているのも無理からぬことであろう。

まさにそのために、本稿を執筆する必要が生じたのである。

チンギスハーンの召請によって長春真人丘処機が中央アジアに赴き、大ハーンと会見したこと自体は歴史的事実である。丘処機(邱処機)は、中国に数多く存在した道士の一人であり、金朝で興った全真道(全真教)の一派を広めた功績によって、道教史において重要な地位を占める人物である。

彼に随行した十九人の弟子の一人である李志常は、旅の全行程を通じて詳細な記録を残し、それを『長春真人西遊記』(原題:『長春真人西遊記』、モンゴル語では「長春真人西方遊歴記」)としてまとめた。

七十二歳の高齢の道士が、馬やラバ、荷車を用いて東アジアの山東半島を出発し、中央アジア西南端にまで旅をしたという事実は、誰が聞いても驚嘆に値する。片道だけを見ても、その行程は毛沢東率いる紅軍の「長征」の約三倍の距離に及んだという(6)

その旅程を現在の地名でたどると、山東を出発し、すでにモンゴルの支配下にあった北京を経て、居庸関付近から北東へ進み、シリンゴルおよびジューウダ(昭烏達)の地を通過してフルン湖へ至った。その後、ケルレン川を遡って三江源に達し、そこから現在のモンゴル国の領域を西へ横断してアルタイ山脈に到着した。

丘処機はそこで道観を建立し、九人の弟子を残した後、この旅で最も困難であったと思われるアルタイ山脈を現在のホブド地方で越えた。さらにジュンガル砂漠の縁を進み、天山山脈の北麓に沿って西へ向かい、天山山脈を迂回したのち、南西へ進路を転じて、キルギスおよびタジキスタンの山岳地帯をモンゴル軍の護衛を受けながら横断し、サマルカンドへ到着した。

しかし、この時チンギスハーンは軍務に追われていたため、丘処機はサマルカンドで一冬を過ごし、翌春になってさらに二十日余り旅を続け、ようやく現在のアフガニスタン北部で大ハーンに拝謁することができた。

この旅は片道だけでも一年を要し、さらに中央アジアに一年間滞在したため、丘処機がチンギスハーンと対面するために実に三年もの歳月が費やされたのである。

チンギスハーンと長春真人との会見を検証するために利用できる基本史料は二つ存在する。

第一は、李志常が著した『長春真人西遊記』(7) である。

第二は、耶律楚材がチンギスハーンの命により、丘処機の発言の要点を漢文で記録した『玄風慶会録』(8) である。

以下では、筆者が本稿で提示しようとする中心的な論点について述べることにしたい。

一 、チンギスハーンは丘処機に「国家統治の術」を尋ねたのか。それとも、丘処機はチンギスハーンに「殺戮を減らすよう諫めた」のか。

李志常の著した『長春真人西遊記』には、両者の最初の会見について次のように記されている。

四月五日、宿営の場所が定まると、ただちに大ハーンに拝謁した。大ハーンはねぎらいの言葉をかけて言った。「私はこれまで幾度となく諸国に使者を遣わしてあなたを招いたが、お越しいただくことはかなわなかった。しかるに今日、万里の彼方よりここまで来られたことを、私はたいへん喜んでいる。」師は答えて言った。「辺鄙の地に住む一介の道士である私が、勅命によってここに参上したのは、天意によるものであります。」大ハーンはこれを喜び、席を与えて酒食を賜った。続いて大ハーンは、「仙師は遠路はるばる来られたが、長寿を得る霊薬によって、私のような凡人を助けることができようか」と尋ねた。師は答えて言った。「生命を養う道はあります。しかし、人を長生きさせる霊薬は存在しません。」大ハーンはその率直さを称賛し、自らの幕営の左側に二つの幕舎を建てさせ、そこを師の宿所とした。(9)

この出来事を率直に言えば、チンギスハーンは一年もの歳月をかけて遠方からやって来た客人に席を与え、茶や食事でもてなし、主人としての礼を尽くした後、直ちに「長寿の霊薬というものは存在するのか」と、本題に入ったのである。

それは、はるか遠方からこの老道士を招いた唯一の目的が、まさにその点にあったからである。

続いて、チンギスハーンの通訳は、「師が『天と等しく永遠なる人』と呼ばれているのは、自らそのように名乗ったのか、それとも人々がそう呼ぶようになったのか」と尋ねている。この問いもまた、長寿という話題から離れてはいない。

これに対して丘処機は、「私たち四人は同じ師に学んだが、そのうち三人はすでに亡くなり、私一人だけが生き残った。そのため、人々がこのように呼ぶようになったのである」と説明している。

さらにチンギスハーンは、アルタイ山脈以来、丘処機の護衛を務めてきたチンハイ(青海)に対し、「この道士には、どのような称号を授けるのがふさわしいか」と尋ねた。そして家臣の提案を受け入れ、「今後は『Deed arshi -- 大上仙(至高の仙師)』と称することとする」(10) と勅命を下し、この最初の会見は終了した。

この最初の会見において、チンギスハーンは国家統治や軍事戦争については、一言たりとも言及していないのである。

第二回の会見は414日に予定されていた。しかし、チンギスハーン自らが戦場へ出征することになったため、この会見は実に六か月延期され、10月に変更された。そのため、高齢の丘処機は「ロバに鞭を打ちながら」(12) サマルカンドへ引き返した。

長らく待たされた末に実現した第二回会見は、驚くほど簡潔に記録されている。李志常が意図的に省略したのでなければ、『長春真人西遊記』には「その夜、拝謁して乳製品のもてなしを受け、退出した」(13) という、わずか一文しか記されていない。

その後まもなく行われた第三回会見は、やや公式な性格を帯びていた。李志常は次のように記している。

「大ハーンは法会のための殿舎を整え、侍女たちをすべて退かせ、左右に灯火をともさせ、チェルビ(近侍)のチンハイ一人だけを残した。……師が教えを説くと、タイシ(大臣)のアハイが命を受けてこれをモンゴル語に通訳し、大ハーンに奏上したところ、その内容は大ハーンの意に大いにかなった。」(14)

第四回会見については、次のように記されている。

「十九日の夜は月がことのほか明るかった。師は再び招かれ、教えを説いた。大ハーンは大いに喜んだ。」(15)

第五回会見については、さらに次のように記録されている。

「二十三日、師は再び召し出された。礼遇は以前と変わらず、大ハーンは終始謹んで教えに耳を傾け、その内容を書き留めさせた。さらに左右に侍する者たちに命じて言った。『大上仙が三度にわたり説いてくれた養生の道は、深く私の心に刻まれた。この内容を外部に漏らし、人々に知らせてはならない。』」(16)

チンギスハーンと丘処機との正式な会見は、結局この五回だけである。

これらの記録に繰り返し現れる「教え(教えを説く)」とは、道教の教義修養法を指していることは、あまりにも明白である。

この五度にわたる会見において、軍事戦争や国家政治に関する問題は、チンギスハーン、丘処機のいずれからも一切話題にされていない。

丘処機がチンギスハーンのもとへ到着した頃には、ホラズム(サルトール)遠征における主要な戦闘はすでに勝利のうちに終結していた(もっとも、ジェベとスブタイによるキプチャク、ルーシ、ブルガール方面への遠征はなお進行中であった)。チンギスハーンはすでに本国への帰還を開始する段階に入っていたのである。

1223年春には、大ハーンの黄金の軍旗はアフガニスタンを発し、サマルカンドを経て、ゆるやかに東方への帰路についていた。

その帰還の途中、丘処機は折に触れてチンギスハーンと面会していたことを、李志常は「大ハーンに従って東方へ向かう道中、たびたび道教の教えを説いた」(18) と記している。

「たびたび」が具体的に何回を意味するのかは明らかではない。しかし、この記述は、両者の対話の主題が一貫して道教の教義と修養に関するものであったことを、改めて明確に示しているのである。

翌年(二月)、丘処機はチンギスハーンに対し、「山中の庵へ帰ること」を願い出た。これに対し、大ハーンは「私もまもなく東方へ帰る。ともに帰ってはどうか」と述べたが、丘処機は「私が先に帰ることをお許しいただきたい……。陛下がお尋ねになったことについては、すでにすべて申し上げ終えました。どうか帰国をお許しください」(17) と願い出た。

チンギスハーンはその願いを聞き入れ、丘処機はさらに一年を費やして、現在のフフホトを経由し、金朝領内へ帰還した。

一方、敵を打ち破って赫々たる武勲を挙げたチンギスハーンは、盛大な祝宴を催し、戦勝を祝った。各地で夏営を行い、狩猟を楽しみながら、約四年ぶりとなる故国モンゴルへ急ぐことなく帰途につき、最終的にトーラ川畔の大オルド(大本営)へ帰還した。

ところが、中国側では、この一連の経緯を「テムジンは長春真人の教えを聞いて心を改め、殺戮をやめて故郷へ帰った」と描いている。

しかし実際には、チンギスハーンが中央アジアから帰還したのは、最大の宿敵であった金朝と、たびたび裏切りを繰り返した西夏を最終的に滅ぼすという戦略を実行するためであった。そのことは、モンゴル本国でひと夏を過ごしたのち、再び大軍を率いて西夏遠征に出発した事実によって明らかである。

そして西夏を滅ぼした後、その属領であった金朝の黄河流域を攻略し、金朝滅亡のための政策と具体的な戦略を遺言として残して世を去ったのである。

李志常の『長春真人西遊記』は、旅の見聞や風物の描写、さらに詩作を好んだ師丘処機の詩文に多くの紙幅を割いている。そのため、「丘処機がチンギスハーンに国家統治の術を説いたこと」や「殺戮を減らすよう諫言したこと」が、意図的であれ偶然であれ記録から漏れたのではないか、という推測を抱く読者もいるかもしれない。実際、丘処機を研究する中国の歴史学者の中には、「チンギスハーンが『外部に漏らしてはならない』と命じたため、李志常はそれを記録できなかったのである」と公然と主張する者もいる。

しかし、チンギスハーンが「外部に漏らし、人々に知らせてはならない」と命じた対象は、彼自身の言葉ではなく、「大上仙が三度にわたって説いた養生長寿の道」であることは、第五回会見の記録(前掲)を見ればきわめて明白である。

では、チンギスハーンが本当に国家統治について質問し、丘処機が本当に殺戮を減らすよう諫言したのであろうか。この問題に最終的な答えを与える史料が、丘処機が中央アジアで行った説法をまとめた『玄風慶会録』である。

この記録を作成したのは、一般の書記ではなく、チンギスハーンの側近として深い信任を受けていた耶律楚材その人であった。『玄風慶会録』には、五回の会見のうち実質的な内容をもつ三回の会見で、丘処機が述べた教説のすべてが収録されている(最初の二回が儀礼的な会見であったことは、すでに見たとおりである)。

しかも、この記録はチンギスハーン自身の命令によって作成保存されたものである以上、丘処機の発言が意図的に削除されることはもちろん、偶然に脱落することさえ考え難い。

『玄風慶会録』を最初から最後まで精査してみると、中国側が繰り返し主張している「国家統治の術を説いた」あるいは「殺戮を減らすよう諫言した」といった内容は、まったく存在しない。『玄風慶会録』は、その題名が示すとおり、純粋に道教の教義を説いた記録なのである。

もちろん、この記録には、道教の根本教義である健康養生長寿の問題から離れ、社会政治や軍事戦争に関係する記述が二か所だけ見られる。しかし、それらはいずれも「チンギスハーンが国家統治について質問した」ことを示すものでも、「丘処機が殺戮をやめるよう諫言した」ことを示すものでもない。以下、その全文を引用する。

第三十二段

「太行山の東、黄河以北の地(19) は最も肥沃な土地であり、良質の穀物野菜果実を産し、魚絹をもって国家を支えている。古来、この地を支配した者は強大な国家を築くことができた。そのため、歴代の君主たちは常にこの地域を争ってきたのである。しかし現在、この地の住民は戦乱によって離散し、いまだ安住の地を得ていない。民の苦しみを理解し、慎重かつ聡明な官吏を任命して派遣し、三年間、租税と兵役を免除するならば、軍隊や国家運営に必要な物資の供給は確保されるだけでなく、住民の生活も再建することができよう。このように人民を安んじ、その子孫までも平穏に暮らせるようにすれば、天もまた陛下を加護するであろう。」

第三十三段

「私は陛下の召命を受け、万里の彼方より参上し、養生と身体を健やかに保つ道についてすでに詳しく申し上げた。国家を治め、人民を養う道についても、申し上げることを惜しむ理由はない。先ほど申し上げたように、太行山の東、黄河以北の住民を安定させるためには、高潔で有能な官吏を任命し、陛下の勅命によって派遣されるならば、必ずや天意にもかなうであろう。もし無能な役人を任命するようなことがあれば、事業は成功せず、かえって禍根を残すことになる。かつて金朝は東北地方に興り、当初は中原の人民や風俗を十分に理解していなかったため、東平に宋人の劉豫を立てて自らの代理とし、中原を八年間統治させた後、自ら統治権を引き継いだ。これは国家建設の初期に採るべき賢明な施策であり、ぜひご考慮いただきたい。」

この二つの段落は、本質的には同じ内容を繰り返している。すなわち、太行山以東黄河以北の地域に有徳の官吏を任命し、当地の住民を租税から免除して安定させるよう請願しているのである。丘処機が「惜しみなく説いた」という「国家を治め、人民を養う道」とは、この程度の内容にほかならない。ここには、「殺戮を減らすよう諫めた」と解釈できるような文言は、一切存在しない。

では、なぜ丘処機はこの地域だけを特に取り上げているのであろうか。

その理由は、この地が彼の生まれ故郷であり、また活動の拠点、すなわち修行していた道観もそこにあったからである。現代的な言い方をすれば、この老道士は自らの「私的な事業」を実現しようとしていたにすぎない。

丘処機が戦乱から救済を願ったのは、金朝領内に属する漢人居住地域に限られていたのであり、今日の中国の歴史学者たちが盛んに主張するような、「中国全体」あるいは「漢民族全体」のために救済を求めたわけでは決してない。この点は、以上に引用した発言そのものが明確に示している。

そもそも、丘処機には、「中国」あるいは「漢民族」という広範な共同体全体を自らの対象として捉えるような歴史認識は存在しなかった。それは、中国人自身の歴史的自己認識とも関係している。中国人は古来より自らを一貫して「中国人」あるいは「漢民族」と称してきたわけではない。漢王朝の時代には「漢人」、元朝の時代には「元人」、清朝(大清帝国)の時代には「大清人」、あるいは単に「国民(臣民)」と自称していたのである(20)

丘処機が生まれた時点で、金朝はすでに建国から三十三年を経ており、太行山以東黄河以北の地域も金朝の領土となってから二十二年が経過していた。言い換えれば、丘処機は生まれながらにして「中国人」ではなく、金朝の臣民であり、彼にとっての祖国とは金朝そのものであった。

以上、二つの基本史料を詳細に検討した結果、チンギスハーンが丘処機に「国家統治の術」を尋ねたという事実も、丘処機がチンギスハーンに「殺戮を減らすよう諫言した」という事実も、いずれもまったく存在しなかったことが明らかとなる。すなわち、これらの説は、中国の著述家たちが恣意的に創作したものであり、歴史的事実とは到底認められない完全な虚構なのである。

二 丘処機がチンギスハーンとの会見に応じた真の理由

丘処機は、「南宋の皇帝や金朝の皇帝からたびたび招かれても、一度として赴かなかった」(21) にもかかわらず、なぜ言語も通じず、民族も異なり、「殺戮しか知らない北方の野蛮人」と見なされていたモンゴル人の君主チンギスハーンの召請には応じたのであろうか。その理由は、当時進行していたモンゴル帝国の征服戦争の情勢と密接に関係している。

丘処機がチンギスハーンの召命を受けた1219年当時、金朝の都中都(現在の北京)はすでにモンゴル軍によって陥落してから四年が経過していた。それだけでなく、金朝の広大な領土は次々とモンゴル帝国に編入されつつあり、金朝の滅亡はもはや時間の問題となっていた。五十年にわたり修行を積んできた老道士が、このような歴史の大転換を見誤るはずがない。中国の伝統的な歴史観からすれば、「未来の天下の主」が自らを召し出したのである。

チンギスハーンは、「側近の劉仲禄に虎頭金牌(虎頭牌符)を授けて派遣した。その牌には『この牌は朕自らが来たのと同じ効力を有する。勅命のとおり実行せよ』と記されていた」(22)

李志常が「師は、この召命を辞退することはできないと悟った」(23) と記しているのは、まさにこの事情を指している。すなわち、未来の支配者からの召請は、丘処機にとって生き延びるための保証であり、また最大の幸運でもあったのである。

これこそが、丘処機がチンギスハーンとの会見を受け入れざるを得なかった唯一の理由であった。したがって、丘処機の西方への旅は、中国側が描くように、自ら進んで平和の使者となり、平和の鳩のように翼を広げて喜んで赴いた旅では決してない。それは、文字どおり「首に刃を突きつけられた状況」でのみ選択しなければならなかった義務であり、避けることのできない任務であった。

丘処機は召命を受けたその月のうちに故郷を出発した。しかし、あまりにも長大な旅路と砂漠荒野の過酷な自然条件を前に、高齢の彼は疲労困憊し、旅を中止したいと二度にわたって願い出ている。莱州の道観を出発して北京へ到着した際、丘処機は「大ハーンの移動宮廷は徐々に西へ進んでいると聞いた。……ならば、大ハーンが帰還する時に拝謁したい」(24) と申し出た。しかし、護衛軍を率いて迎えに来ていた劉仲禄はこれを認めなかった。

さらに旅程のほぼ中間にあたるアルタイ山脈の麓、チンハイの管轄地に到着した際にも、丘処機は「ここで越冬し、大ハーンの軍が帰還するのを待ちたい」と願い出た。これに対し、チンハイは「もし仙師がここに留まれば、その責任はすべて私が負うことになります」(25) と丁重に断り、さらに「私は喜んで師のお供をいたしましょう」(26) と述べて同行を続け、サマルカンドのさらに西方、バラーンヘールと呼ばれる地に置かれていたチンギスハーンの遠征本営に至るまで、終始その護衛を務めたのである。

実際のところ、丘処機の健康状態は決して良好ではなかった。会談にも同席していた耶律楚材は、「師は常に病苦に悩まされており、命を落とすのではないかと思われた……(27) とまで記している。丘処機は中央アジアから帰国した四年後に没した。十九歳で家を出て、生涯を修行に捧げ、健康と長寿を追い求め続けた彼であったが、その寿命は、生涯を馬上で過ごしたチンギスハーンより、わずか十四年長かったにすぎないのである。

丘処機がチンギスハーンと会見してから十二年後、建国以来百十九年の歴史を有した金朝はついに滅亡した。国家滅亡という悲劇の瞬間を迎える七年前に、丘処機はこの世を去っていた。それを彼にとって幸運であったと言うべきかどうかは容易には判断できない。なぜなら、彼はその悲劇的な結末を、はるか以前からすでに見通していたのである。

三 チンギスハーンが丘処機を召請した唯一の理由

チンギスハーンは丘処機と初めて対面すると、直ちに「仙師は遠路はるばる来られたが、いかなる長寿の霊薬によって、この凡人を助けることができようか」と尋ねている。このことから明らかなように、彼が古代の帝王のように不死不滅の仙薬を求めていたわけではない。

『長春真人西遊記』のモンゴル語訳では、この箇所が「不死の薬」と訳されているが、これは誤訳である。「長生(長生)」という漢語には「長寿」と「不死」の両義があるものの、この文脈では「長寿」の意味で用いられていることは明白である。その理由は、十三世紀当時、人は不死ではあり得ないという認識が、人類社会にすでに広く共有されていたからである。

丘処機を召請する以前、チンギスハーンがホラズム遠征に出発しようとした際、イェスイ皇后は、「山のように偉大なお体も、いつかは崩れ去る時が参りましょう。そのとき、広大なモンゴルの国を誰が治めるのでしょうか。四人のご子息のうち、いったい誰が国家を継ぐのでしょうか。」と進言した。これに対しチンギスハーンは、「私はまるで祖先たちの後を追うことはないかのように、このことを忘れていた。あたかも死が私だけを避けて通るかのように、本当にそのことを考えていなかった。」と述べ(28)、その後、後継者問題について協議を行い、最終的にオゴデイを帝位継承者に定めたのである。

このように、自らの死について明確に語っていた人物が、中国の道士に会った途端、突然不老不死を求めるようになったと考えることは到底できない。

長寿を願うことは、人が老境に入れば誰しも自然に抱く願望であり、そこに君主と庶民の違いはない。ただし、君主は一般の民衆とは比較にならないほど多くの機会を有し、そのような助言を求めることができた。

では、なぜチンギスハーンは数多くの医師や治療家ではなく、ことさらに丘処機を召し出して長寿について尋ねたのであろうか。その理由は、中国道教が何世紀にもわたって、自らの養生術や長寿の秘法を誇張して宣伝し続けてきたことにある。

道教の根本的な目的は、健康な生活を送り、長寿を得て、生命を慈しむことにあった。その目的を実現するために、精神統一、断食、禁欲、丹薬の錬成など、十年以上に及ぶ修行を行うのである。

道士たちは、「長寿を得る」「不老不死となる」といった真偽の定かでない説を盛んに宣伝した。その結果、平素はこれといった人生の目標を持たなかった多くの中国農民が強く惹きつけられ、少なからぬ者が道教に帰依した。その迷信的な教義は、当時の中国民衆の文化的知的水準によく適合していたため、その社会的影響力は儒教をはるかに凌ぐほど広範なものとなった。やがて、このような評判はさまざまな経路を通じて中国の国境を越え、近隣諸国にも伝わるようになった。モンゴル系諸部族は古くから金朝と国境を接し、戦争や交易などを通じて多様な交流を続けていた。そのため、道教や、その「神秘的な効能」についても、少なからず耳にしていたはずである。

チンギスハーンが中国の道士を召し、長寿について問いただすことになったのは、中国人官僚の劉仲禄が発案したものであったと考えられる。劉仲禄は、もともとチンギスハーンに仕えていた中国人医師であった(29)。彼が道教の養生法や長寿の効能について知る限りのことをチンギスハーンに奏上したことは、宮廷医師として当然の職務であったと言える。

また、チンギスハーンが劉仲禄に虎頭牌符を授け、丘処機を迎えに派遣したことも、ある政策や提案を行った臣下に、その実施を直接担当させるという君主制国家における通常の行政慣行と、よく符合しているのである。

四 「国家統治の術を尋ねた」という説が成立した論理

チンギスハーンが丘処機を召請した当時、その年齢はすでに六十歳を超えており、西夏征服を除けば、生涯における主要な征服戦争はほぼすべて終えていた。

年齢の面から見ても、また経験の面から見ても、その時期の彼はもはや他人に国家統治の方法を教えられる立場ではなく、自ら他者に教える側に立っていたと言える。現代の政治家にたとえるならば、回顧録を書き、自らの功績を総括する時期に達していたのである。

それにもかかわらず、なぜ「長寿の方法はあるか」と尋ねるために一人の道士を招いたという史実が、「国家統治の術を教わるために招いた」という物語へと書き換えられたのであろうか。

その背後にある論理は、きわめて単純である。招いた側は「北方の野蛮人」の王であり、殺戮と略奪以外には何も知らない存在である。一方、招かれた側は数千年の文明を誇る中国の高名な道士である。そうであれば、両者の関係は当然、師と弟子でなければならない――

つまり、このような先入観に合わせる形で物語が構成されたのである。

しかし実際には、中国社会において道士とは政治に携わる人々ではなかった。彼らの本来の務めは修行であり、むしろ世俗社会から距離を置いて生活する存在であった。言い換えれば、彼らは国家統治の専門家ではない。もっとも、彼らは一定の生活基盤を持ちながらも社会の最下層に位置していたため、歴史上、少なからぬ農民反乱が道士によって指導された。元朝に対する武装蜂起の口火を切った韓山童もまた道士であり、実際には朱元璋に先立って元王朝の基盤を揺るがし、その崩壊への道を切り開いたのである。

五 丘処機が説いた健康法と長寿法の内容

本稿では、丘処機がチンギスハーンに説いた主要な内容は、国家統治ではなく、健康と長寿に関する教えであったことを論じてきた。そこで、その内容についても簡潔に触れておきたい。丘処機がチンギスハーンに授けた健康長寿の秘訣を要約すれば、結局のところ一つのことに帰着する。性的交渉を節制することである。

丘処機は、「一般の民でさえ、一人の妻しか持たなくとも性交が過度であれば身体を損なう。まして陛下は宮中に多くの妃や侍女を抱えておられるのだから、健康を保てるはずがありません。」(30)と述べ、さらに、「十日に一度の性交で十分である。」(31)とまで具体的な頻度を提案している。また、中国には「千日薬を飲むより、一夜独りで寝よ」ということわざがあることも紹介している。

古来、中国では道教だけでなく、中国医学や中国文化全体においても、過度の性行為は身体に最も有害なものの一つと考えられてきた。中国語には、「一滴の精は千滴の血に値する」という成句も存在する。

このような考え方は、湿潤な地域で野菜や果物を主食としてきた人々の生活環境には適していたのかもしれない。しかし、それを人類全体に普遍的に当てはまる原則とみなすことには慎重であるべきであろう。

丘処機は、歴代中国王朝の皇帝たちが後宮の女性たちに溺れて命を落とした事例を念頭に置き、その姿をチンギスハーンにも重ね合わせていたことは明らかである。しかし、この洞窟で修行生活を送ってきた老道士は、遊牧国家の君主が、定住国家、ことに中国皇帝のように即位すると同時に壮麗な宮殿を築き、大規模な後宮を設けるような存在ではないことを理解していなかったようである。

チンギスハーンの生涯のほとんどは移動宮廷で営まれ、その多くを馬上で過ごしたことは周知の事実である。丘処機の教えが、実際には「弟子」を取り違えていたことは、チンギスハーン自身の最後の言葉によっても裏づけられる。

丘処機の説法を最後まで聞き終えた後、チンギスハーンは、「あなたの述べたことは重要である。しかし、それを実行することは難しい。」(32)と評している。

これは実質的には、「あなたの教えは、私には受け入れることができない」という意思を、外交的かつ婉曲に表明したものにほかならない。

六 その他の論点

1.丘処機が会見によって得たもの

チンギスハーンは、はるか彼方から丘処機を召し寄せたものの、自らが期待していた成果は何一つ得ることができなかった。

これに対し、新たな支配者に功績を示し、少なくとも自らの生命と地位を確保しようとしていた丘処機は、自らの手には余るほどの恩典を携えて帰国した。

チンギスハーンは、三年にも及ぶ長旅の苦労を憐れんだからであろうか、丘処機に金虎牌を授け、「道士に関するすべての事柄は、大仙師の裁可に委ねるべし」と命じたばかりでなく、さらに「天下に勅命を下し、出家して道士尼僧となった者はすべてその管轄に属すべきである」(33) と命じた。これは、いわば丘処機を中国道教全体の最高指導者に任命したことを意味していた。丘処機の帰国は、中国の民衆にとって、あたかも天に昇った人物が戻ってきたかのような出来事であった。李志常は喜びをもって、「師が帰還して以来……各地の道士は雲が集まるように集い……教えの門は四方に開かれ、かつてとは比較にならぬほど大いに発展した。」(34)と記している。

丘処機は、未来の支配者から授かった権威と地位を利用し、とりわけ全真道を大いに発展させ、歴史にその名を刻んだのである。

中国の歴史学界が「元代は道教が大いに栄えた時代である」と評価するが、その出発点はまさにここに求められる。


2.「金朝の密偵説」について

一部のモンゴル人歴史家は、丘処機は金朝の密偵としてモンゴル軍の情勢を探るために派遣されたと疑っている。一方、中国の歴史家の中には、このことを別の意味で積極的に評価しようとする者もいる。しかし、いずれの見解も成立し難い。

当時すでに金朝の首都は陥落し、国土の三分の一はモンゴル軍に占領されていた。モンゴル軍の実情は自国の目の前で十分に確認できる状況であり、それにもかかわらず、はるか中央アジアまで赴いて敵軍を偵察する必要など全くなかったからである。

3.丘処機の評価について

今日の世界地図を基準として考えても、また十三世紀当時の状況に照らしても、丘処機は、その名のとおり祖国を裏切った人物であったと言わざるを得ない。

彼は強大な異民族の侵略者から召命を受けるや、戦火によって傷ついた祖国を離れ、その侵略軍の総司令官に対して、自らの知る限りの長寿法を惜しみなく説いている。

もし、このような人物を「裏切り者」と呼ばず、むしろ優れた人物として高く評価するのであれば、その民族には善悪や真偽を判断する基準が失われていると言わざるを得ない。極端に言えば、そのような社会では、裏切り者さえも称賛の対象となってしまうのである。

4.「チンギスハーンの招請状」という創作につい

最後に、「チンギスハーンが丘処機に送った招請状」とされる文書について触れておきたい。『長春真人西遊記』の原本には、「虎頭金牌を帯びた二十余名のモンゴル人が来訪し、勅命を伝えて師を招請した。」(35)と記されているだけであり、「招請状」と呼べるような書簡は一切登場しない。また、『玄風慶会録(教えを説いた会談の記録)』にも、この種の文書については何ら記載されていない。

実際には、この「招請状」は、1926年に『長春真人西遊記』が中国語で刊行された際、モンゴル学者でもあった中国人学者王国維が注釈として付け加えたものである。王国維自身、その「招請状」は『輟耕録』から転載したものであることを明記している(36)。しかし、『輟耕録』は歴史書ではない。その内容は、詩歌、民間説話、宮廷逸話、伝説、怪異譚などを寄せ集めた個人の随筆集であり、丘処機の西域旅行から一四三年後に編纂刊行された作品である。著者の陶宗儀は、道教研究者でもなければ、丘処機の専門家でもなく、また丘処機の西域旅行について著作を残した人物でもない。彼は辺境に暮らした読書好きの農民であり、各地で伝え聞いた逸話を数多く書き留めた人物として知られている。

『輟耕録』には、チンギスハーンから丘処機への招請状と、それに対する丘処機の返信という二通の書簡が収録されている。しかし、これらはいずれも創作であると判断する十分な根拠が存在する。第一に、それらの書簡がどこから伝来したのか、その出所がまったく記されていない。第二に、新聞や出版物などの情報媒体が存在しなかった時代に、一介の農民であった陶宗儀が、皇帝自らの書簡をどのような経路で入手し、閲覧することができたのか、説明がつかない。第三に、丘処機がチンギスハーンと会見した出来事は、中国社会において非常に英雄的な逸話として語り継がれていたことは疑いない。陶宗儀は元朝時代の人物であり、この伝説について様々な異説や口承を耳にしていたはずである。そして、怪異譚や伝奇を好んで著した彼は、その創作的才能によって、二人の老人に互いの書簡を書かせたのであろう。第四に、そして何より重要なのは、李志常はチンギスハーンから授けられた虎頭金牌のことや、派遣された使者が二十余名であったことを極めて具体的に記録しているにもかかわらず、もし本当に大ハーン自筆の招請状という文書が存在していたのであれば、それは師弟双方にとって何より誇るべき歴史的証拠となるはずであるという点である。仮にその全文を収録しなかったとしても、その存在にすら一切言及しないということは、史料として極めて不自然であり、到底考え難いのである。

王国維は、中華民国時代を代表する碩学として広く知られている。しかし、そのような学者でありながら、なぜ文学的性格の強い個人随筆集から、出典も伝来も明らかでない資料をそのまま歴史史料へ付け加えたのか、その理由は理解し難い。

さらに理解に苦しむのは、モンゴルの歴史学者たちが、この問題について何ら史料批判を加えることなく、それを史実として翻訳し、歴史的証拠として引用利用していることである。

  1. 『元史』「丘処機伝」。
  2. 中国語版Wikipedia、および百度百科。
  3. 『止殺令』。
  4. サイシャール(賽尚阿)『チンギスハーン史略(チンギスハーンの簡史)』2019年版、下巻、594頁。
  5. チャダライ『モンゴル史』下巻、178頁、内モンゴル人民出版社、2010年。なお、引用文は文意にやや不自然な点があり、ウイグルモンゴル文字版への転写過程で誤りが生じた可能性がある。
  6. 公式に宣伝されている距離ではなく、実際の行程に基づいて算出した。
  7. 『長春真人西遊記』、デージュ訳、内モンゴル文化出版社、2001年。
  8. 『玄風慶会録』。「教えを説いた会談の記録」という訳題は筆者による試訳である。中国語原文はインターネット上で容易に閲覧できる。
  9. デージュ訳はやや直訳的で不自然な箇所が多いため、中国語原文と照合したうえで、一部の語句をサイシャール『チンギスハーン史略』の訳文に改めた。
  10. チンギスハーンが丘処機に授けた称号そのものは本論の中心的問題ではないが、ここで筆者の見解を述べておきたい。李志常は「神仙の号を授けた」と記しており、デージュはこれを「Sahvvs-- 守護神」、サイシャールは「ホタグト仙人(Huagt arshi)」と訳している。しかし、まず考えるべきは、チンギスハーンが実際に用いたモンゴル語を、訳者が漢語の「神仙」と訳したこと間違いない 。モンゴルでは古く、道教の修行者を能力に応じて「ボムボ(道士)」と「アルシ(仙人)」の二階級に分け、さらに「ikh arshi-- 大仙人」「deed arshi-- 最高位の仙人」に区分していたという(注11)。したがって、チンギスハーンが授けた称号は「deed arshi -- 最高位の仙人(最高位のアルシ)」であった可能性が高い。「アルシ」を漢語では「仙」と表すため、「最高位のアルシ」を「神仙」と漢訳することは意味上妥当である。したがって、現代においてこれを再びモンゴル語へ戻して訳す際には、漢字を逐語訳するのではなく、本来のモンゴル語表現を復元することが望ましい。「ホタグト」は本来チベット仏教の転生活仏に与えられる称号であり、本件には適切ではない。一方、「神仙」という漢語自体には「守護神」の意味も含まれるが、道教修行者に対する呼称としては「アルシ」が最も適切である。
  11. ソドビレグ『宗教辞典』、内モンゴル教育出版社、1996年。
  12. 『長春真人西遊記』137頁。
  13. 同上、152頁。
  14. 同上、153頁。
  15. 同上、153頁。
  16. 同上、153–154頁。
  17. 同上、157頁。
  18. 同上、154頁。
  19. 原文では「山東河北」とあるが、当時の金朝には現在のような行政区画としての山東省河北省は存在しなかった。ここでは「太行山以東、黄河以北」を意味しており、実際には中原、すなわち華北地方を指している。
  20. 「中華」「中国」「漢民族」といった概念名称は、いずれも清朝以後に形成されたものである。
  21. 中国の著述家は、丘処機を「皇帝の招請さえ意に介さない偉大な思想家」として描こうとしてきた。1216年に南宋皇帝、1219年に金朝皇帝の招請を断ったとされる一方、一部史料では金の世宗と三度会見したとも伝えられている。
  22. 『長春真人西遊記』5頁。
  23. 同上、11頁。
  24. 同上、16–17頁。
  25. 同上、68頁。
  26. 同上、68頁。
  27. チャダライ『モンゴル史』下巻、180頁。
  28. ツェダムディンスレン校注『蒙古秘史』第254節、内モンゴル人民出版社、1997年版。
  29. サイシャール『チンギスハーン史略』下巻、591頁。
  30. 『玄風慶会録』第10行。
  31. 同上、第20行。
  32. 同上、第36行。
  33. 『長春真人西遊記』197–198頁。
  34. 同上、180–181頁。
  35. 同上、6頁。
  36. 同上、6–7頁。

執筆
2021
1115
米国フロリダ州クリアウォーター
ビーチ(Clearwater Beach, Florida, USA

翻訳者:AI

著者のブログのURLhttps://maynewblogspo.blogspot.com

E-mail : tumenulzei@gmail.com

 

 

 

 

 

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