Wednesday, August 5, 2020

                     「双語教育」とは何か

                                                    B.トゥムンウルジー


1.「双語教育」の本質
モンゴル語の “Hos helnii surgan ho’muujil”, “Hos helnii zaan surgalt”, “Hos heleer hicheelleh”という言い回しはすべて「双語教育」という漢語(中国語)の翻訳である。この用語は “bilingual education という英語の翻訳で、「2言語で教育する」という意味をもつ。西洋の教育システムでは、2言語で並行して授業を行うことがある。第2言語を学習する環境が得られない場合、第2言語を正しくしっかり教育するため、いくつかの授業を第2言語で教えるのである。つまり、これは特殊な場合であり、一般的に行われているわけではない。何よりも生徒や保護者のニーズが重視され、しかもボランティア・ベースであり、政府が強制するものでもない。例えば、ある学校の一クラスで一部の児童が2言語により、他の児童は母語により授業を行うことができる。学校側は2言語による教育モデルを実施する過程で、生徒からのニーズがなくなれば、母語による授業に切替えることもできる。
ところが、中国政府がモンゴル人に対してずっと強制してきた「双語教育」は全く別物である。まずモンゴル語と漢語で授業を行い、ほどなくモンゴル語による授業を廃止して、漢語だけで授業を行うようにする。つまり、教育言語を切替えるプロセスを指した用語にすぎないのである。もしこのような目的がないのであれば、わざわざ教育言語を2つにする必要はない。内モンゴルにおいて漢語を習得する環境がないという言い訳はお笑い草であろう。
「双語教育」の本質は、モンゴル語の使用を教育制度において禁止し、モンゴル人を迅速に同化しようとする完全な「植民地テクノロジー」の重要なプロジェクトの一つなのだ。
ふり返ってみると、これまで「教育言語が漢語に切り替わる」という混乱が起こっても、モンゴル人教師や生徒、保護者から意見を聞くといったことは全くなかった。
 
母語で学校教育を受ける権利がないというなら、私たちの「自治権」というのは一体何なのか。
 
2.中国による3段階の計画
 中国政府は内モンゴルの教育制度を3段階で運用していくことを意図していると理解してよい。第1段階で漢語を教え、第2段階で漢語によって授業を行い、第3段階ではモンゴル民族学校を廃校にする、である。このような3段階の定石は、中国・内モンゴルだけでなく、世界中の植民地において広く実施されてきたであろう。
 内モンゴルでは現在第2段階が進行中であるが、これはほんの数年前からではなくずっと以前から始まっている。第2段階が実施されれば、第3段階は非常に容易である。同じ教科書を同じ言語(漢語)で教えるようにした後で「モンゴル民族学校を個別に存続させることは民族団結にはプラスにならない」などと廃校にしてしまう。第2段階が完了すれば、第3段階はモンゴル人にはさほど大きな意味をもたなくなる。つまり第2段階は、私たちモンゴル人にとって「最後段階」なのである。
 
3.これまでの5回の目論見
 「教育言語を漢語に切替える」という目論見は一体いつ頃から始まったのか、そして、今回は何回目になるのだろうか。はっきりと答えられる人は恐らくいないだろう。一つだけはっきりしていることは、漢民族たちが教育言語の漢語への切替えを目論見始めたのは数年前からではないということである。1978年、モンゴル・漢民族中高校を分割して運営することなった時期から手を染め始めたようである。内モンゴル教育事業の功労者で、内モンゴル教育庁元副長官ロンガンジャウ氏は1986年、「内モンゴルでは教育言語を漢語に切替えようとする動きが過去に34回あった」と書いている(注)。これは内モンゴル全域で、政策として行われようとしたことを言っている。植民地政府は1983年、モンゴル語による授業を頑なに維持しようとしたロンガン氏を「指に刺さったトゲ」と断じ、人民代表大会常任委員という老いぼれの集まりで「改編」の名の下に一般人に格下げした。
 
 教育言語を漢語に切替える問題が再燃した1992年、私は内モンゴル教育庁で記者として働いていた。当時の民族教育局長オラーントク、教育庁長官バヤンらは漢語で教育を受けた人たちで、漢語による授業を積極的に推進していた。内モンゴルでモンゴル人の基本的人権が侵害される時には、漢人が陰で手綱を操り、モンゴル人が表で羽をバタつかせるのが常である。最もわかりやすい例は、19671969年の内モンゴル自治区革命委員会とオラーンバガナ、JaEらモンゴル人である。同じような茶番がこの数年間、教育言語の切替えという騒ぎの中で再び繰り返されている。
 1992年の混乱ではちょっとした事件が起こった。「ホルチンの一部教師」から出された直訴状が江沢民のところまで届いたのである。江は「内モンゴル共産党委員会と政府の方で解決せよ」との指示を内モンゴル党委と教育庁に出した。教育庁は全幹部による会議を開いて直訴状を読み聞かせると、幹部らの前で聞いていたバヤンの顔がみるみる土気色に変わったという。中国の政治文化では、皇帝がなんら意見を詳らかにせず役所や官僚に押しつける時は、当該事項を容認していないということになる。このことは、内モンゴルの植民地政府とモンゴル人の「飼い犬」が教育言語を切替えようとする思いを一時弱めたかも知れない。
 しかしながら、当時の目論見が最後的に挫折したのは、江の指示によるものではなく、それ以前に発生した4回の時と同様、多くのモンゴル人が拒否して抗議したことによる。
 教育言語を切替える目論見は私の知る限り内モンゴルにおいて5回起こっているが、アイマグ・ホショー(盟・旗)レベルでも少なからず起こっていることを明記しなければならない。
 
4.回り道するか乗り越えるか
 数か月経過したが、今回の教育言語の切替えに関する中国政府の公文書が現れず、モンゴル人の間でも国際社会においてもその真偽が疑われている。しかし、このような公文書はこれまでも発出されなかったのである。なぜなら、このような公文書を出せば露骨すぎて国際的には言うまでもなく中国の法律にさえも違反することになるからである。政府の公印をつけば、モンゴル人や国際社会にシッポをつかまれることになる。中国政府が今までいかなる説明もしていないという事実がこのことを証明しているではないか。
 混乱が起こってから今日まで内モンゴルの言語学者が様々な論文を発表している。それらの論文では、母語で教育を受ける優れた点、モンゴル人が母語で学んで著名人になった実例、モンゴル語による教育制度はすでに完備されていることなどを挙げている。漢民族を安心させようと「私たちはモンゴル語で授業を行っても漢語をきちんと学ぶことができますよ」と。モンゴル語による授業を廃止すれば、党の政策に汚点を残すことになり、中国発展の妨げになる、習主席の新指示にも背くことになるとまで主張している。
 否定的なことばを一切使わず拒絶することは、内モンゴルにおいて闘いの一つの形として定着している。つまり婉曲的に表現するということである。「わが国では社会主義時代、文学・芸術が非常に高いレベルに達しました。なぜなら政府を直接批判できないため、婉曲的に表現しようと、あらゆる技巧を総動員したからです」とモンゴル国のある作家が私に語ってくれたことがあった。文学の世界では確かにそうかも知れない。しかし、一民族の言語・文字の使用権のための闘いにおいて遠まわしでは何も達成できないのではないか。Toirch garahgui, tuulj garna(回り道では抜け出せなくても乗り越えれば抜け出せる」ということばがあるではないか。私たちは、今まさにそういう選択を迫られているのだ。モンゴル語で授業を行う権利を守れるかどうかは私たちの選択にかかっている。
 ここで2011年のことを想起することは無駄にならないだろう。あるモンゴル人がトラックでひき殺されたことに抗議して何千何万というモンゴル人が街路でデモを行い、多くのホショー(旗)やホト(市)で抗議集会を開いたため、殺人犯李林東は27日間拘束された後に断罪された。内モンゴルの当時の支配者(党委書記)胡春華は、モンゴル民族中高校のささやかな日よけの下で生徒らと「話し合い」をもつことにもなった。政府は、牧地を破壊して地元モンゴル人に損害を与える行為を有罪にして調整を図ったと発表している。
 
 中国の実力組織の厳しい監視下にある民族主義者ハダ氏は最近、インターネット上で「内モンゴル教育庁を告発する」という提言をした。中国の法律を活用するなら、子供たちがモンゴル語で学ぶ権利を守るための方法の一つに違いない。
 
 在外のモンゴル人たちはそれぞれできることで抗議を続けている。国際社会に訴える、先進国から中国政府に圧力をかけさせる、署名を集めるなどの闘いである。しかし最後的に、モンゴル人が母語による教育を受ける権利を守れるかどうかは、故郷にいるモンゴル人がどのような闘いの形式、方法を選ぶかにかかっているのである。

2020.8.6
 
注:『モンゴル語文』誌19869月号